記事一覧

共感的コミュニケーションにもとづく合意形成

一九七〇年代以降のハーバーマスは、そうした民の公共性を現代において再生させるためには、「行政システム(政府の公)」や「貨幣経済システム(私的経済)」によって「生活世界が植民地化」される事態に対抗して、対等な理性的市民が何らかの要求を掲げて討議しあい、その結果、合意に達するような「コミュニケーション的行為」を必要と考えるよあうになります。そこでハーバーマスは、人間の言語行為のあり方に着目して、コミュニケーションしあう人々の言明が、「客観的真理」「規範的正しさ」「主観的誠実さ」という三つの次元で裏打ちされたとき、討議が成立するという規範基準を設けて、合意形成をめざすコミュニケーションのあり方を定式化しました。

たしかに、熟慮民主主義のモデルとしても援用されることの多いこのようなコミュニケーションのあり方は、政府や私的営利経済による不当な生活世界への浸食に抗して、人々(民)がエゴに陥らずに、理性的な仕方で政策決定の主導権を握るような公共世界の創出のために必要といえるでしょう。実際、こうした彼の努力が一九七〇年代以降の西ドイツの市民運動や社会民主主義政党に与えた影響を無視することはできません。たしかに、以下で述べたように、日本の市民運動や左派政党がこのような公共哲学をもたなかったことは、戦後日本における社民主義の低迷の一因となったといっても間違いではないでしょう。

しかし。こうした留保をつけたうえでも、ハーバーマス流の討議倫理学的観点だけで公共世界を構成するコミュニケーションを考えると、合意を形成するために人々の言語能力や理性に過重な負担をかけることになってしまいそうです。このような考えを尊重しつつも、別な仕方での合意形成は考えられないでしょうか。そこで、合意形成をめざす人々のコミュニケーションのもうひとつのあり方として、スコットランド啓蒙主義の伝統を挙げなければなりません。この伝統は、「共通の利害感情に根ざす共感」(ヒューム)や「公平な観察者の共感」(スミス)などを公共性の基準に据えました。そこでは、理性にもとづく討議ではなく、「共感をもとにしたコミュニケーション」によって公共世界が構成されると考えられたのです。

しかも、そのような公共世界は、社会全体を活性化させる人々の利己的(私的)経済活動を支えるものと想定されている点で、かなり現実主義的な「民の公共」の論理に結びつきうるでしょう。そこで重要なポイントとなってくるのは、私的経済活動を腐敗させないため、人々のモラルをどう維持するかという「民の徳性」の問題ですが、それに関してはここで扱うことにします。また、コミュニケーションが「共通の利害感情」と密接に関連した共感に基礎をおくかぎり、文化的背景や生活慣習をある程度同じくするような人々が集まるローカルなレベルでしか、公共世界を語れないのではないかという懸念が残るでしょう。このような限界は、さきで述べるような「グローカル」という視点で乗り越えられなければなりません。

公共世界の創出は、公共世界が均質な価値観によってではなく、「文化的に異質な他者」によっても構成されることが認識されるとき、切実な問題となります。「多文化的公共世界」というテーマは、とかく日本では軽視されがちですが、現在、欧米諸国をはじめ他の国々では大きな問題になっていますし、これからの日本でも避けてとおることのできない問題となるでしょう。このような多文化的公共世界を構成するかたちのコミュニケーション論を展開している公共哲学者の代表としては、カナダのチャールズ・テイラー(一九三一)が挙げられます。

国益の為の報道

これは単純に日本が輸入したのではなく、日本の会社が委託して管理も日本側管理を教育した上での話である。その後山東省の日本の会社が生産したものに農薬が含まれていたことは、報道はされたが数日で表に出なくなった。河北省の中国の会社で製造したギョウザだけが問題になっている。中国がずさんと言うなら、そこで暮らしている我々はどうなるのか。河北省のギョウザ問題も当初は委託業者である日本の会社も表に出たが、その後は表に出なくなった。もしこれが委託でなく、そして製造会社が日本のだれが聞いても分かる有名な会社であれば、報道は必ずその有名な会社の名前が表に出ているだろう。その意味で報道という物も中立ではなく事実に間違いはないが報道されていることだけが事実というのではない。その意味で報道も、先ほど中国は国益の為の報道、日本は真実を伝える報道と言ったが、必ずしもそうでないことが分かる。

食の安全に関する問題は、日本人のみならず、生きている人間に等しく平等で安全であるべきなのに、いつの間にか日本の食の安全の問題に全ての報道が変ってきてしまっている。チベットに関する欧米の報道の仕方には異常なものを感じる。確かに現在の社会で暴力によって反対の考え方を抑えこむのは問題があるかも知れないが、人権問題をチベットだけに大きな焦点を当てるのは、やはり偏向と言わざるを得ない。中近東やパレスチナやコソボの問題なども良く考えるべきである。私は、二〇〇八年五月に発生した四川省の大地震の報道は中国と日本、香港を見比べていたが、確かに中国の報道は久しぶりに実況が多く、編集を加えていない箇所も随所にあったが、時間が経つにつれて編集されたものに変って来た。チベットの問題があったばかりのすぐ後に発生した地震のあった場所はチベット族を含む少数民族が多く住む地域であった為、中央政府の努力を必要以上に過大に報道しており、政府批判の記事は極力避けて報道していた。

これはまさしく国益の為の報道であるが、その報道とギョウザの農薬入り問題が日本の国益の為の報道に変化していることは私から見れば日本も中国も大きな意味で大差はない。チベット族が中国の中央政府の統治の仕方に不満を持ち、暴動に動いたが、それに対して中国政府が暴力装置を使って鎮圧したことをさす。チベット問題は、宗教の問題も絡み、単純にこの現象面だけで論じることが出来ない奥深い問題であり、毛沢東の新政権がチベットを制圧(一九五九年)したことまで遡る問題である。中国で業務をしていると行政命令的なことに惑わされることが多い。最近は世界的な、あるいは日系の弁護士事務所や会計事務所が進出する一方、中国系でも日本語の出来る法律事務所や会計事務所が出来てきているので、十年前に比べれば格段と便利になり、日本と中国の違いも勉強しながら分かるようになった。

また、中国で法律が変ったり、行政命令が出ればその法律事務所や会計事務所から連絡が来るようになったので情報量が各段に増えた。それはそれで良いことであるが、各規定が自分の会社にどのように影響があるのかというと、ある程度は自分で判断せねばならないし、相談するにしても内容をまとめておかないと適切な相談や判断が難しくなってきている。昔は自分で変わったことをしなければ(意図的に誤魔化さなければ)、かつ社会主義的な発想で関係機関から言われたことをしていれば、特に大きな問題が発生しなかった。但し、日本では当たり前のことが出来ないことも多かったし、意外と出来ることも多かった。それは中国そのものが資本主義を理解しておらず、社会主義市場経済を導入すれば、中国にどんな影響をもたらすかを中国の官僚が良く理解できていなかったことにもよる。

法律が刻々変化することは、なにも中国に限ったことでもなく日本でも国会が終われば新しい規定が数多く出来ている。問題は、①中国に来ているほとんどの企業人が法律や経理関係の専門家でないこと。日本の会社で仕事をしている時、余りその方面にタッチしていないか、全く無関心でいたことにより問題の所在が分からないことである。更に中国側では新しく出来た法律がだれでも分かる形で公表されていない。細則が是々非々で後から出来ることから、却って判断に苦しむことが多いことである。更には公表から施行時期までの時間が殆んどない。場合によっては遡って施行されることが多いことである。この二つの要因により現地で仕事をするには非常にやり難い現実が生じるということである。

当時のココム規制

初めて北朝鮮に行ったのは一九八〇年代の半ばであった。ある友好商社所属の名義で北朝鮮系の商社経由でパスポートを申請した。当時は、パスポートは北朝鮮とキューバの両国は、普通のパスポートでは行けなかった。(ついでに言うが、当時は中国大陸に行った人は、そのビザのはんこがついたパスポートでは台湾も行けなかった。)パスポートを変更する為に従来のパスポートとは別に一回限りのパスポートを取得する必要があった。そのパスポートでまず中国行きのビザを取得し、いったん中国の北京に渡り、北京の北朝鮮大使館(中国は北朝鮮とは国交があり、しかもアメリカとの朝鮮戦争以来の特別な友好国である。)で北朝鮮行きのビザを取得し、翌日北朝鮮に向かうことになる。

何をしに行ったかと言うとテレビの組み立てラインの販売であった。心の中ではこの仕事はうまく行かないということは分かっていた。当時のココム規制があったからだ。しかし、どんな国だろう、見たこともない神秘な国という関心もあり、一度行って見たい国であった。手続きをした上でサンプルのテレビを持って技術者を含めて三人で行った。テレビは翌日、北朝鮮に持っていくので北京空港に保税のまま預けて、翌日ピョンヤン行きの飛行機に積み込んだ。トラブルは何も起こらなかった。ピョンヤンの飛行場でも商談ということで何の手続きもなくそのまま持ち込めた。飛行場から所定のホテルまでは、朝鮮側の受け入れの顧客の按配した高級車ベンツで直行した。思ったより広い道で快適であった。

何分かかかったかは覚えていないが、程なくして着いた記憶がある。当時のピョンヤンは結構自由でデパートや市内のレストランは自由に行けた。勿論、後をつけられていることは覚悟のうえであったが、特に行動に制限は受けなかった。日系朝鮮人との合弁のデパートもあり、食堂もあり、又、日本食に似た日本食を食べられる食堂もあった。毎日のようにホテル以外で食事をした。商談は、顧客の用意した車で、顧客まで行ったが、案の定、上手くいかなかった。理由は組み立てラインに使用する計測器を相手が希望し、それを販売することが出来なかったからだ。それでも、顧客の技術者は日本語が出来、しかもココムのことは良く知っていたので、購入できないことの了解は得たが、組み立てラインがどのようになっているのかは理解できたようだ。(これもノウハウということで、厳密に言えばかなりリスキーな説明で法に抵触しないよう相当に気を使った。)

商談がない日は、ピョンヤンの金日成が生まれた場所や市内の見学となったが、驚いたことに、市内には地下鉄があり、電車には殆ど乗る人がいないのにも係わらず、自動券売機が駅に備わっていた。これは中国の無償援助で設置されたものであり、地下鉄自体も中国の援助であった。自動券売機というものが中国にもない時代に、である。この謎は、その後読んだ『誰も知らなかった毛沢東』(ジョンーハリディ著)の中に記述が見えるが、毛沢東が中国をめちゃくちゃにしている間にも、中国寄りの国には多大な援助をしていたからであった。その中には北朝鮮に「自動券売機を援助した」とは書いていないが、「さもありなん」と思われる箇所が出てくる。ピョンャンには、ドルを持参したが換金は旅行小切手(T/C)よりも現金の方が交換率が高かった。やはり自由圏から孤立していた関係上、現金が欲しかったのと思われる。

当時の北朝鮮は、今から思うと現在よりまだ生活に余裕があったと思われる。その後、私の北京駐在時代以降、ある駐在の商社の人が中国の休みを利用して北朝鮮に旅行したが、その駐在員が過去に比べて貧しくなった、と言っていた。その駐在員は、八〇年代にも北朝鮮を訪問した経験があったと言う。今回、北朝鮮に行った話を書いたが、何処の社会にもある一線を越えない限り安全な社会というものがあり、一線を越えようとするとかなりの障害が生じる。先ず一回限りのパスポートを申請したその日の午後に、韓国の商談相手や、韓国で知り合った友人から国際電話が頻繁にかかってきた。「今度、北朝鮮に行くんだってね」「何しに行くの」何故分かるのだろう。私は彼らが持っている情報網に驚いたものだ。常に私は監視されている。これは、北朝鮮系の商社や日本の官庁に情報系の人がいるに違いないと思った。それは中国に行った時使用したパスポートで初めて韓国に行った時だ。

父が米国帰りの京大教授

特に蓮華寺は家から歩いて30分、自転車で10分ほどの距離で、最もよく通った。秋は庭園のイチョウと紅葉が目に鮮やか。仏像がまつられる本殿の左手にはせせらぎが流れ、静寂な空間が広がる。宝ケ池に移ってからは犬の散歩は私の仕事になり、周辺の山道をよく歩き回った。京都の文化と歴史が作り出したものに触れるうちに、いつの間にか国際化のなかにあって大切な日本の精神性も少しは身についていたのだろう。私は無信仰なのだが、幼少のころからお寺や神社に通い詰めたおかげで、仏教や神道の世界には非常に親近感を覚える。中学に入ってからはキリスト教と密に接する生活を送ったが、神社や仏閣、教会はどんどん入っていける場所だという感覚を持つようになった。どの宗教にも流れている普遍的な教えを多少は理解できたように思う。

引っ越し後も、お寺や神社に囲まれた生活は変わらなかったのだが、私の人生には大きな変化が待ち受けていた。41年4月、修学院国民学校に入学すると、生きることの厳しさを嫌というほど思い知ることになった。国民学校に入学した私を待っていたのは、いじめだった。周りの子供たちから「異人さん」とやじられ、猛烈ないじめを受けたのだ。私は幼少のころは髪が柔らかく、茶色でおまけに色白。体も大きかったから何もしてなくても何となく目立ってしまう。出すぎる性格で人から誤解も受けた。太平洋戦争のせいで学校ではすっかり敵役だ。周囲は田舎だったその学校は1クラス50人ほどの5クラスで、先祖代々の農家とか木こりの子供たちが多い。そこに入り込んできた茶髪で色白な異分子。父が米国帰りの京大教授だったこともいじめの原因になった。

学校への行き帰りの道で毎日のように待ち伏せされたりもした。ガキ大将を中心に10人くらいが輪になって私を取り囲み、「異人さん」「外国のスパイや」[生意気言うな]とののしる。皆で寄ってたかって手を出すことはなかったが、よく小競り合いになった。食糧難も年々ひどくなる。学校で出る給食を「おまえ食べんとおれに寄こせ」といういじめにもあった。わが家にはお手伝いさんもいて生活には余裕があったと思うが、食べるのには苦労した。よく食べたのは豆かすを入れたご飯。芋粉をホットケーキのように焼いて食べたりもしたが、まずくてたまらない。

母は自宅の横に広がっていた野原を開墾し、かぼちゃやさつまいもを作っていた。その畑の草抜きや耕しをよくやらされた。それでも足りず、三重県の柘植駅から6キロくらい離れた場所にある母の実家に、父と一緒によく米をもらいに行った。駅からは交通手段がなく、米を背負って歩く。母の実家は白米、かしわのすき焼き、トウモロコシが腹いっぱい食べられる別世界。飢えていたので、いつも食べすぎておなかをこわした。農家の親戚があるだけ幸せだと両親は語っていた。自宅から少し離れた場所に雑木林があり、そのうち林のなかに隠すように軍需工場ができた。そこに朝鮮から人を連れてきて作業をさせたのだ。その子供たちが学校に入ってきて別の集団ができあがった。腕力が強い子供たちで、悩みの種が増えてしまう。

一時は夜も眠れないくらい学校に行くのが嫌になった。弱り果てていたある晩、ふと「あいつは何を望んでいるのだろう」と思いつき、犬を連れてガキ大将の家を1人で訪ねた。他愛のない話だったが、1対1で話してみると意外なほどに気弱なやつだ。翌日から私への態度がころっと変わった。5、6年になると私自身がお山の大将になったが、自分か弱虫でいじめに苦しんだから、弱いやつが好きだった。彼らを助けて自己満足し、英雄を気取っていた。私にとって小学生のときに受けたいじめほどつらい経験はない。でも、それに耐え、乗り越えたら、どんな苦難にも立ち向かえる自信が芽生えた。自分の欠点にも気づかされ、友だちの悩みにも耳を傾けるようになった。人を恐れ、避けるのではなく、人と人との間でたくましく生きる精神を培ったと思う。

データに見る日米価値観の違いの大きさ

アメリカ人が短期的見方しかできないことをオバマ大統領は議会で次のように告白している。「長期的繁栄よりも短期的利益を得ることを褒めそやすような状況のなかに我々は生きてきた。次の支払い、次の四半期決算、次の選挙より先を見ることができなかった。日本人は貯蓄に熱心なのに対して、アメリカ人は貯蓄に回すより消費する傾向か強い、という違いも、この長期、短期の視点の差に由来すると言えるだろう。アメリカ人と日本人の特色をもとに、アメリカと日本の社会の違いを表したのか、右のの図だ。個人レベルの特色を反映し、社会システムがかくのごとく異なっているのか一目瞭然だろう。日本人とアメリカ人、日本社会とアメリカ社会、同じ人間といえども、向かっている方向ははっきり違っている。当たり前のことではあるか、日本人とアメリカ人、日本社会とアメリカ社会は、根本的に異なっているのである。

個人の価値観として、八つの視点を取り上げ、日米はその両極端に位置することを示してきた。感覚的にはもっともだと思われるか、どれほど違うかがはっきりしない。残念なから人間の意識を正確に量る手段はないか、一つの目安を与えているのは世論調査である。多数の国民に意見を聞くことによって統計的に意味ある傾向を導き出すことかできる。世界各国の価値観を調べる調査としては、ミシガン大学か中心となって五年ごとに行われている「世界価値観調査」が有名である。電通総研は、日本代表としてこれに参加している一方、独自に一九九六年より、「価値観国際比較調査」を日本では毎年、欧米、アジア各国では隔年で実施している。

青少年の意識については、日本青少年研究所がさまざまな国際比較調査を毎年、内閣府が「世界青年意識調査」を五年ごとに行っている。これらのデータに基づいて、日米の価値観にどれほど差が出ているかを見てみよう。まず金に対する執着が日米でどれだけ違うだろうか。「仕事や会社に何を求めますか」の問いに、当てはまるものをすべて回答する項目では、「給料かよい」と答え九割合は、日本67・8%、アタリカ96%だった。日本では、「職場の人間関係かよい」か70%でトップだが、この項目はアメリカでも68・7%で、ほぼ同率。違いはやはり、アメリカ人は十人か十人とも給料を重んじているのに、日本人は約七割と、お金に対するこだわりが比較的少ないことかわかる。

また、「給料にかかわらず、いつもベストを尽くして働いている」という問いを肯定する答えの割合は、日本54・2%であるのに対し、アタリカでは32・7%。日本人の、金より仕事、という姿勢を裏づけている。アメリカは仕事に就いたのちは金次第で働くという傾向が見られ、金が少なければ給料の多いところを求めてすぐ転職することになる。青少年の金に対する意識については、鮮明に日米の差が現れている。高校生に対する金銭観の調査では次のような結果か得られている。大人の回答と異なり、青少年の回答はより素直に彼らの金銭観を表していると見ていいだろう。アメリカ青年がいかに金にこだわっているかが浮き彫りになる。特に、「金持ちは尊敬される」という項目では、日本人の約三倍の73%がこれに賛成していることは驚きだ。

また、「お金のためにいくらでも残業する」が、日本の二・六倍も多く、また、金で権力か買えると考える率も高く、まさしくアメリカ社会での金に対する貪欲さがまざまざと示される。金がすべてだ、という拝金主義か若い頃から蔓延していることが見てとれるだろう。アメリカでは、「自分の主張を貫くべきだ」が、日本の約四倍、「他人の評価を気にしない」が、日本の二・六倍で、二人に一人という高い比率である。青少年についても同様で、アメリカでは、「他人のためより自分のため」に完全同意する者が日本のほぼ四倍と、小さい頃から個人主義か醸成されている。「他人の期待に応えようと努力する」に反対する者が、アメリカでは七割近いことも意識の違いの大きさをまざまざと感じさせる。

今日の無気力青年のあり方

まず『虞美人草』(明治四十年)の甲野欽吾は、たいへんな秀才で帝大を卒業するか、職にもつかず、わけの分からないことを日記に書いては、難しい本ばかり読んでいる。母親が身を固めさせようとやっきになるが、絶対に嫁をもらおうとはしない。次に『それから』(明治四十二年)の主人公の長井代助は、親しくしていた女性への愛を友人から告白されて、その友人に彼女を譲ってしまう。それをきっかげにして彼は遊民となり、ロシア語の本を読んだり音楽会や歌舞伎座に行くだげの、高等遊民としての日々を送っている。彼の父は維新のときに戦争に参加した世代である。代助は社会変革を経た時代の子として、父の儒教道徳と実業とを軽蔑しながら、現実から逃避して、感動しない人間として生きている。

彼もまた今日の無気力人間とよく似ている。父親や周囲の者が嫁を世話しようとするが、絶対に応じようとしない。ついでに言えば、代助の書生の門野もまた遊民であり、今は居候に近い書生として代助のもとに寄宿している。この男は今日のフリーターに近い存在と言うことができよう。さらに『彼岸過迄』(明治四十五年)の主人公の須永市蔵もまた典型的な遊民である。彼の父は「主計官であった上に貨殖の道に明らかな人」だったので、父が死んでからも「母子とも衣食の上に不安の憂を知らない好い身分」である。「この安泰な境遇に慣れて奮闘の刺激を失った結果」、大学を卒業した法学士なのに「役人にも会社員にもなる気のない、いたって退嬰主義の男」である。

好意を寄せる千代子に対しても、なんだかだと理屈を考えて、結局はなんの行動にも出ることができない優柔不断の男である。彼が自分の意志でやったことと言えば、ドイツ語の本『ゲダソケ』を読んだことぐらいである。この小説にはもう一人、市蔵の叔父の松本恒三という「懐手ばかりして、舶来のパイプをくわえている」だけの高等遊民が登場している。もっともこちらは妻子ある身であるが。このように漱石の作品には、今日のアパシーや境界例と言われる患者と同じように、読書する以外にはたいしたこともしないで、他人から見れば遊んでいるとしか見えない人々が何度も描かれている。とくに最後の『彼岸過迄』の主人公の須永は、今日の無気力青年のあり方に酷似している。というのは、彼もまた父親不在の育ち方をしているからである。

彼の父親は彼が幼いときに死んでいるので、母子二人だけの家庭である。しかも彼はじつは母の実子ではなく、父が他の女性に生ませた子で、引き取られて育てられたという境遇にある。義理の関係にありながら、しかしこの母子の関係は非常に親密で、こまやかな愛情に支えられている。それだけに息子のほうはひ弱で神経質、母のほうも息子に強い態度を示すことができない。こうして須永の無気力が父性不在と密接な関係にあることは明白である。漱石の文学の中に、どうしてこうも頻繁に無気力青年が登場するのであろうか。しかも当時の読者たちは、それをたいへん異常な現象であると言って、とりたてて問題にしたとか、拒否反応を示したという話も聞かない。とくに統計的な根拠があるわけではないが、おそらく当時の人々から見ても、こういう類型の人間はそんなに珍しいものではなくて、周りに見聞きされる存在であったのかもしれない。

少なくとも当時のインテリ読者の中には、こうした人間類型に対するある種の共感があったのではなかろうか。そういう人間類型は漱石にとって、はなはだ気になる存在であり、自分と無関係だとは思えなかったであろう。なぜなら彼らは漱石の子の世代に、そして弟子の世代にあたるからである。この類型の青年の世代は、維新のときに多感な青春時代を過ごした世代の孫にあたる。漱石の世代は維新世代の子の世代である。その意味では、漱石が遊民を描いた典型的な作品がすべて明治四十年代だというのも、重要な意味を持っていることが分かる。そのころは漱石が四十歳代であり、遊民の青年たちは彼の子の世代、維新世代の孫の世代に当たるのである。

東西文明の融和した魅力的な風景

トンキンは「美しくも哀しい紅河デルタ」(ギラン)上にあり、暴れ川たる紅河と共存する高度集約農業を営んで、元来村落共同体が強固であり、中部南部のような直轄植民地ではなく保護領となったことで共同体は温存された。「王の法律も村の境界まで」といわれた北部の「地方細分権制」と、植民地の集権支配によって共同体を破壊された中部および南部では、社会の構造がもとより異なっていたのである。追いつめられたときのベトナム人は、がっての日本人のように勇敢である、とハルバスタムは『ベトナムの泥沼から』に書いている。そのうえ彼らは天才的な破壊活動家で、たとえば鉄道を破壊するときには、線路だけではなく枕木や道床に撒かれた砂利まで持ち去り、穴を掘れば掘り返した土さえ運び去って「白人たち」を困惑させきったのである。

一九四五年三月、日本は敗戦に先だってフランス行政府を廃止し、ベトミンに委ねた。「日本人の仕掛けた時限爆弾」が爆発するのは一九四五年十二月である。このときのハノイ蜂起が第一次インドシナ戦争に発展して、同時にサムロの運転手のような風貌のホーチミン(胡志明)という英雄を誕生させることになるのである。ラオス国境に近い大樹林中の小盆地で、ディエンビエンフーが陥落するとき、フランス軍指揮官の最後の通信は、「敵は地下にいる。地下からあふれてくる」というものだった。ベトミンはひそかに無数のトンネルを地中に掘り進めていたのである。その驚くべき仕事ぶりは現在、サイゴン西北クチの村で見ることができる。それはトンネルというより地下の基地である。基地というより地下の村そのものである。

中国紅軍の影響を受けた地下戦術とゲリラ戦は、植民地人混成軍のフランスにつづいて、物量のアメリカを圧倒した。しかし、姿を最後の瞬間まで見せないゲリラによって展開された「戦線のない戦争」は、白人たちに底知れない恐怖を与えはしたが、ついにベトナムとベトナム人とを理解させることができなかった。フランス人にとってのディエンビエンフーの記憶はひたすら内向して、たとえば映画ではセルジュ・ブールギニョンの『シベールの日曜日』のような作品となった。ベトナムに「泥沼」をつくったアメリカは、フランシス・F・コッポラの『地獄の黙示録』、マイケル・チミノの『ディアーハンター』、オリバー・ストーンの『プラトーン』などを生んだが、いずれの作品でもアジアは白人文明にとっての「闇の奥」と認識されていて、アメリカとアメリカ軍の問題は描かれてもベトナムとベトナム人はついに描かれなかった。

たまに登場してもそれは、フジヤマ、ゲイシャ、ヤキトリ、LSIの日本とおなじ虚構のイメージにすぎなかった。たったひとつの例外は、記憶する限りスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』で描かれた死の瞬間の女狙撃兵である。太平洋戦争、朝鮮戦争、そしてふたつのインドシナ戦争でながされたおびただしい血は、がってのサイゴンのような東西文明の融和した魅力的な風景と相互理解を生み出す捨て石とはならず、反戦派の映画人も一時のジェーン・フォンダやジャン・リュック・ゴダールのように、エキセントリックな記憶を残したにとどまった。しかし、いずれにしろ遠いむかしの話である。

ベトナム政府は、統一当初全土を真っ赤に染めあげて失敗した。五年後にはその方針を部分修正し、十一年後には全面修正することになった。大胆な方針転換を可能にした原因の第一に、ベトナム人の柔軟さ、もともと中央集権には不向きな文化的資質があげられる。また、幸運なことにこの国には一九六九年にホーチミンが死んで以来カリスマが不在だった。中国が毛沢東の巨大なカリスマ性によって大きく疏行し、北朝鮮が金日成のカリスマ性を宗教段階まで結晶化した結果、いまや進退きわまりかけているのと対照的である。しかし、一九七八年三中全会以後の中国における経済開放の動きに、ベトナムがまるで影響を受けなかったとも考えにくい。

集団的自衛権の解釈

日米安保条約第五条に、「前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は」、「(国連の)安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない」としているので、これに従うなら、国連が「日本国の施政の下にある領域における、(日米)いずれか一方に対する武力攻撃」に対して、それを停止させるための必要な措置、例えば複数国による武力行使も含む平和執行部隊の派遣を決めた場合、日米両国は自衛のための武力行使を終止しなければならない。

となると、国連平和執行部隊が日本を守るための武力行使をしている一方で、日本は何もしないでそれを見守っていなければならない状況になる。形式上は一度、共通の危険に対処する行動を停止したことにして、新たに国連が定めた平和執行部隊に参加するという形にするのも可能なのかもしれないが、そうなると「集団的自衛権」との関連が問題になる。この集団的自衛権とは、日本政府の解釈によると「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」とされている。

一方、日米安保条約では、先にも述べたようにその前文で、「(日米)両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」ているのだが、日本政府は「わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然である。しかし、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」(防衛白書)と説明する。

となると、国連が(世界が)日本を助けるために多国籍軍部隊を派遣してくれる場合には、日本は多国籍軍部隊と共に戦うことができるが、日本以外の国(それは米国も含む状況になるだろう)が直接攻撃をされても、日本は「実力をもって」助けることはできない話になる。これも日米安保を片務的とする要因になっている。国際紛争を解決する手段としての武力の行使を放棄し、国の交戦権を認めていないのだからしかたがない(ただし、日本政府は「わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することが当然に認められており、その行使は、交戦権の行使とは別のものである」としている)。

問題は、世界の中で生きている日本が、「憲法がそうなっているのだから」という言い訳で通用するのかという、相対的見地からとるべき姿勢であろう。日米安保条約は(百米)各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、(日米)いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め」としているから、日米以外の国の船舶や航空機が日本の施政の下にある領域で攻撃を受けたとしても、日本は当然関知しない。第四条において。締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議するとされてはいるが、前記の集団的自衛権の解釈により、日米以外の国が共同防衛行動の対象になることは考えられない。

ページ移動